エチオピアは世界で最も古い国の一つである。紀元前10世紀、かの「シバの女王」がソロモン王を訪ねたことから、その歴史が始まっている。いや、文字の形で残っていない歴史は、それよりもはるかに長い。1974年には、ハダール地区の約350万年も前の地層から「ルーシー」と名づけられた女性の遺骨が発見されているほどだ。この国は、「人類発祥の地」でもあるのだ。
歴史と同様、エチオピアには古い文化も色濃く残っている。たとえば、国民の70%以上はコブト教と呼ばれる原始キリスト教をしている。コブト教とは、451年の宗教会議(カルケドン公会議)で異端とされ、エジプトやエチオピアに逃がれてきたキリスト教の一派がこの地で布教をすすめ広まったものである。以来、エチオピア正教会を中心に、いまもなお伝統は脈々と受け継がれ、原始キリスト教の修行を忠実に保っているといわれる。西欧化されていない、土俗的雰囲気の強いキリスト教の一派である。
また、民族も多様である。ハイレセラシエ皇帝に代表されるハラール族や、シバ女王を象徴とするチグレ族の女性たちは、鼻筋が通り、唇が薄く、私たちの美意識では推し量れない不思議な顔立ちをしている。私も、思わず目を奪われてしまった。
エチオピアは、北部の2000メーターを超えるアビジニア高原地方と南部の低地地方とに分かれている。高地では過酷な自然が人びとの生活を苦しめ、南部では砂漠という名の不毛地帯の広がりが、農産業の発達を妨げている。そのため、エチオピアは古い歴史と伝統を持ちながら、その民力は低く、世界の最貧国の一つである。
しかし、私が訪れた高原地方では、村を訪れるや、友好的な大勢の人々にワッと囲まれた。貧しくとも、人々はみな大らかで明るい。とくに、無邪気に笑顔を振りまく子供たちには救われる思いがした。
エチオピアの首都アディスアベバは、標高2440メートルの高地に位置する。そのため、空気はカラリと乾いて過ごしやすい。飛行機から降り立った最初の印象は、「アフリカなのに、意外に暑くないな」というものだった。ただし、「太陽が13ヶ月照らす国」と呼ばれるだけのことはあって、陽射しは強烈だ。
ディレダワを経由して、まず訪れたイスラム教の聖地ハラールは、かつては重要な交易地として栄えた街でもあり、イスラム教徒の多い街としても知られている。16世紀の独立時代に建てられた城壁が、いまもなおその姿を残していた。
ハラールは、詩人ランボーがこよなく愛し、放浪の人生の最後に住み着いた地として知られる。ランボーもまた、多様な文化が入りまじる独特な雰囲気に心惹かれたのかもしれない。
エチオピア高原の一画にある「ラリベラの教会群」には、インドのエローラ岩窟寺院群にも匹敵する異様な迫力があった。ただの教会ではない。そこにある計11の教会群は、その岩をくりぬいて(掘り下げて)作られているのだ。世界でも類を見ないこの「岩の教会」、敬虔なキリスト教徒であったラリベラ王が、「第二のエルサレム」にすべく建設を命じたものだという。私たちが持っている「建築」のイメージから逸脱した、不思議な場所であった。
だが、最も印象的だったのは、広大なナイル川の源の1つを目の当たりにしたこと
だ。全長6700kmの大河であるナイルは、ウガンダ側のビクトリア湖を源流とする
「白ナイル」と、エチオピア側の「青ナイル」に分岐する。その「青ナイル」の源流
が、エチオピア高原北部のタナ湖である。
3673平方kmに及ぶ広大な湖で、その中にちらばる大小37の小島には、教会や修道院も多い。私たちは船に乗り、ナイルの源流たるこの湖を遊覧した。陽射しが強烈で、船上では日陰を求めて何度も移動した。その陽射しに照り映える青い湖面の美しさは、いまも私の脳裏に鮮やかである。
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